マッサンがニシン御殿購入?そして竹鶴のリンゴジュース戦略!
2017/09/05
最近マッサン見逃しがちでした;;24日の放送でいきなりリンゴジュース造りがスタートしていたので驚いた。しかも鴨居商店を辞めて広島に帰郷したはずの俊夫がなぜか北海道に、、、そうかまたエリーが一枚噛んでたわけか。
しかも 熊虎の娘・ハナ(小池栄子) に惚れてしまったかのような雰因気…彼は意志が固いんだか、やわいんだかよく分からない奴だと改めて思いました。
黄昏”ニシン御殿”は誰のものに?
政春が鴨居時代に見た”ニシン御殿”の活気、あれが最後の輝きだったということだった。かつての殿様、熊虎もいまでは借金まみれで屋敷を手放さなくてならない状況にまで追い込まれていた。
_という所から、2話分くらい見逃していたからいろいろ疑問が;;
熊虎のニシン御殿 はリンゴジュース造りの拠点になっていて、ハナや一馬もその仕事を手伝っていました。政春が熊虎の家を買い上げたのか?それとも一時的に借金の肩代わりをして、森野一家を従業員とすることでその返済をして貰うという事だろうか?
熊虎の義弟・進も政春の熱意に折れたわけだ。
熊虎はいまだにニシンが来ると信じいるようだけど。
※ニシン御殿(熊虎邸)はリンゴジュース工場で働く、従業員の食堂として活用されることになったようです^^
※ 進はニシン御殿(熊虎)の連帯保証人 という立場で、熊虎に借金返済能力が見込めない以上、政春にリンゴを売ることは一馬やハナの為にも最良の選択となった。
ニシン漁の衰退?
ちなみに「 ニシンバブル 」だけど歴史上の事実らしい。
ニシン漁は1910年以降急激に漁獲量が増えました。少なくとも40年という豊漁期間があったと推測できます。
明治末期から大正期(1912~1926)の最盛期(春先の産卵期)では、北海道沿岸(小樽~稚内)で100万t近くの漁獲高を誇っていたのです。しかし1953年(昭和28年)以降、漁獲量が徐々に激減し1955年ついに5万tほどまで衰退。
最盛期の1/20です_。
ちょうどこの衰退期をマッサンでは描いているのかもしれません。
一度余市を捨て漁師として東北をまわっていた熊虎が、ニシンの漁場の北上とともに再び余地に戻った事も現在の確執につながっていたようです。この土地のリンゴ農家はニシン漁師より後に入植しています(ドラマでは並列に描かれている_)。熊虎のような成り上がりの漁師に当時頭が上がらない状況があったのではないでしょうか?
竹鶴政孝もリンゴジュース製造
マッサンでは、余市でのウイスキー仕込み期間の運転資金を調達する目的でリンゴジュースを商いしています。政春のモデルでもある ニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝 も同様に余市でリンゴジュースを作っていました。
しかしその理由(やり方)がドラマとはちょっと違っていて面白いw
竹鶴は余市で起業する際、寿屋(サントリー)と鳥井には恩があるとし、余市でウイスキー製造をする気はないと言って出資金を募っていました。純粋にリンゴジュースで行くと_。「 大日本果汁 」創業当時は、事実酒造免許を取得していなかったのです。
しかし1935年のリンゴジュース販売から5年後の1940年には、余市で製造した最初のウイスキー「ニッカウヰスキー」をちゃっかり販売にこぎつけている。
当時果汁100%のジュースは高価で売れなかったらしく、そのため在庫の一部で蒸留酒を造っていたのだと。そのついでに少量のウイスキーも仕込んだらしいのです。
寿屋時代の失敗も踏まえつつ、最速5年でウイスキーを商品化にこぎつける手際の良さ。この辺の強(したた)かさはマッサンとはちょっと違うw
ここがポイントです。当初リンゴジュースの為の工場でしたが次第にウイスキー工場へのカスタマイズが始まります。
政春は技術はあるが商才のない人物のように描かれているが、当の竹鶴政孝は寿屋時代を経験したことで商売人としての才覚も磨かれていたはずです。ウイスキー事業への風当たりの強さはとっくに計算済みだったでしょう。
それどころか鳥井への恩義を持ち出しリンゴジュースで勝負すると、、、このやり方のほうが資金が集めやすかったのです。
※マッサンもリンゴジュースが軌道に乗るまではウイスキーを造らないと、出資者の野々村や渡と約束していた。出だしでつまずいたリンゴジュースだったが、病院など新しい取引先が開拓され少しずつ軌道に乗り始める。
マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキーの誕生 / 原タイトル:JAPANESE WHISKY SCOTCH BLEND/オリーヴ・チェックランド/著 和気洋子/訳 価格:2,160円 |